第1章 人間の本性の探求
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1. 生物としての人間
人間とは何か
汝自身を知れ
人間とは何かを研究する方法はいくつもある
多くの学問分野が互いに協力することにより、ようやく一側面が見えてくる
本書では多面的アプローチの一つとして、ヒトの進化と適応という観点が、広い意味での人間の理解にどのゆに役立つかを探る
人間の本性と人間観
人間も一人一人がどんなに異なろうとも、「人間」「ヒト」という一般的な特徴を備えている
現在の地球上に住んでいるすべての人間が、ヒト(Homo sapiens)という同じ一つの生物種に属しているから
基本的に同じからだの構造を持ち、同じような生理学的、生化学的過程によって動いており、どんな人間同士も互いに繁殖が可能
人間の本性(human nature)
人間の心の働きにも一般的パターンと言えるものがある
「人間とは〜なものだ」と言える何かがあると考えるとき、それは「人間の本性(human nature)」という言葉で表されることがよくある
最近では、人間の本性(human nature)の代わりに、普遍的な人間性(human universals)という言葉で人類に共通の行動や心理を表す場合もある(Brwon, 1991)
性善説、性悪説、「万人の万人に対する戦い」というT. ホッブスの言葉も、人間の本性についての見方
進化によって作られた人の本性
人間の本性を考察するにあたって、本書を貫くもっとも基本的な前提となるのは「人は生物である」という事実
1. ヒトは生物である
2. ヒトは進化の産物である
3. ヒトは、他の生物と同様に、おもに適応的な進化の過程によって形作られてきた
4. 生物に共通の進化と適応の原理を考慮することは人間理解に大きく貢献するだろう
5. ヒトの心や行動の成り立ちを説明する上で、進化理論が不可欠な基本原理だ
2. 氏と育ちーー古くて新しい問題
遺伝と環境
「人間の本性」をめぐる考え方の中では、「氏か育ちか」ということが繰り返し問題になる
遺伝か環境か
心はからだと違って、遺伝的基盤によって形成されているのではなく、文化や学習によって、すなわち環境によって形成されるのだという強い主張が存在する
一方の極の人々は, ヒトの心の働きのほとんどは遺伝的に決まっており、後天的な影響は非常に少ないと考えています.
このことは, 特に知能に関して顕著で, ヒトの知能がどれほど遺伝的に固定されているかを示そうとした研究がたくさんなされてきた.
確かに知能は遺伝的要素が強く働いているようだが、それらの人々の中には政治的な立場による意図を持ってそのような研究を発表している人達がいる
もう一方の極の人々は、ヒトの心の働きのほとんどは文化や学習によって後天的に決まると考えている
経験主義哲学者J.ロックが用いた「タブラ・ラサ(tabula rasa)」(何も書かれていない物書き板)
極端な考えはどちらも誤り
どんな生物でも、遺伝情報のみで作られることはない
(種子が発芽するにはそのための環境が必要)
どんな生物でも、環境のみによって作り上げられるような性質も存在しない
(発芽環境が整っていても、そもそも種子がなければ発芽しようがない)
問題は、心のどんな働きにおいて、遺伝や環境がどれほど、どんな影響を及ぼしているのか
20世紀の人文社会科学の人間観
20世紀になって大いに発展した学問に、社会学、文化人類学、心理学がある
これらの学問は、社会や文化がいかに個人を規定しているかを明らかにし、それ以前にはあまり認識されていなかった、個人に対する文化環境の束縛力の強さを示した
社会学の父と言われるE.デュルケームは、人間の社会や行動は人間の生物学的側面によって規定されるものではなく、人間の生物的な作りに関する知識は人間の理解にあたって必要ではない、と述べた(Durkheim, 1895)
アメリカでは、文化人類学の基礎が、1915年から1934年ごろにかけて築かれたが、その骨子は以下の諸点(Boas, 1911; Ember & Ember, 1999)
1. 文化とは独自の現象であり、他の何にも(とくに生物学に)還元することのできないものである
2. 人間の行動を決めているものは、人間の生物学的基盤ではなく文化である
3. 文化とは任意のものである
心理学は、社会学や文化人類学と比べると、社会より個人そのものに焦点をあてた研究を積み重ねてきたが、20世紀の心理学で支配的な人間観は、やはり経験の重要性
特に行動主義心理学と呼ばれる学派は、人間行動は要素的に分解可能な学習の積み重ねで形成されると考え、ヒトに備わった生物学的な制約にはほとんど注意を向けなかった
今日の主流になった認知心理学は、心の内面の研究を復活させたが、生物学との交流が盛んになったわけではない
上に挙げ文化人類学の基本的な人間観は、現代の多くの心理学者にも共通のものだと言える
20世紀になってから、これらの学問が形成され、大いに発展したため、20世紀の人間観はこの文化中心的な考え方に強く影響されている
文化が人間に大きな影響を与えていることは否めない
しかし、初期のアメリカ文化人類学の考えの骨子のようなことは本当なのか?
次節の社会生物学論争でも浮き彫りになるように、人間行動の規定要因として社会や文化に重きをおく考えはきわめて根強く、社会科学のドグマと言ってもよいほどのもの
標準社会科学モデル(Standard Social Science Model: SSSM)
進化心理学者のトゥービーとコスミデスによる、1920年代以降の社会科学全般の根底に横たわる経験主義、相対主義の原理(Tooby & Cosmides, 1992)
このドグマを出発点に置くと、文化を超えた人間の普遍性は考慮の外に置かれることになる
人間の行動や心理が文化的社会的環境によって変容することは事実だが、このことはそこに生物学的な基盤がないという証拠にはならない
また、生物学的な基盤があるとしても、それだけで人間の行動が決まるわけでもない
文化相対主義を突き詰めていくと、普遍的人間性に関する真実を追求することに意味がないことになってしまうが、私達はそう考えていない
マーガレット・ミードの神話
文化が変われば何でも変わる、したがって固定された「人間の本性」など存在しない、という考えの証拠としてあげられた研究に、文化人類学者のマーガレット・ミードの研究がある
ミードは文化相対主義の創始者であるフランツ・ボアズやルース・ベネディクトの弟子で、サモア、ニューギニアなどの南太平洋の人々を研究した
『サモアの青春』の中で、サモアの文化には思春期の葛藤や性の抑圧は存在しない、若い女性の婚前交渉は自由でそれについて話すことは何の制約もないと報告した
この考えをさらに強固にするのが『三つの未開社会における性と気質』の中で語られる、互いに100マイルと離れていないニューギニアの三つの部族における男性と女性の性質の話
アラペシュと呼ばれる人々は、男性も女性も穏健で
ムンドゥグモルと呼ばれる人々は、男性も女性も非常に攻撃的
チャンブリと呼ばれる人々では、男性が西欧で普通に女性的と思われている性質を表し、女性が西欧で普通に男性的と思われている性質を表している
その後の厳密な再検討の結果、これらの調査結果は正確なものではなく、大部分がミードの性急な思い込みによるものであることが明らかになった(Freeman, 1984, Freeman, 1999)
サモアの青春についてミードに情報提供したサモア人の少女たちはミードに作り話をしたことを後に証言した
三つの部族の話は、そもそも学問的に正確なデータは一つも存在しない
遺伝決定論と差別
人間の心の働きに関する遺伝か環境かという論争は、単なる科学上の論争というよりは政治的な信条の違いをも含んだ、しばしば研究者たちの個人的な感情が込められた争いだった
遺伝を重視する人々の中には、ヒトの知能その他の能力がおおむね遺伝的に決まっていると主張することにより、差別に対する科学的根拠を与えようとする人がいる
研究者自身にその意図がなくても利用されることもある
20世紀中葉のイギリス教育界に大きな影響力を持っていた心理学者、シリル・バートは、別々に育てられた一卵性双生児の研究によって知能が遺伝的に強く規定されていることを示し、それを根拠に知能の低い子供にどんな教育をほどこしても意味がないと主張した
イギリスでは1950年代に11歳のときに行われる一斉テストの成績により、将来上の学校に進むかどうかを決めてしまうイレブン・プラスというテストが全国的に導入されていたが、バートの研究結果がその原動力になっていた
ところが1970年代以降、バートの研究が問い直されることになり、やがて知能はほとんど遺伝で決まっていることを示したバートの研究データは実は捏造であったことがわかった(Hearnshaw, 1979)
他にも多くの研究者が、知能は遺伝性が高いことと、知能指数には人種によって差が見られることをもって、人種間には遺伝的な知能の差があることを主張している(Herrnstein & Murray, 1994; Rushton, 1995など)
このように差別と結びついた研究が存在するために、遺伝を重視する考えは遺伝決定論、生物学的決定論とひっくるめられ、嫌われてきた
そういう言い方をする人は、ヒトの行動その他に遺伝的な基盤があるということは、そのような行動が変えようのない固定されたものであり、自由意志のない決定論だと思っている
遺伝子の働きはそれほど決定論的なものではない
遺伝子は多かれ少なかれ、その周囲の環境に応答しながら発現するもの
ヒトの行動に遺伝的基盤があるからといって、自由意志や教育の効果が無意味になるわけではない
遺伝というと決定論的に受け取られる理由は、一つにはフェニルケトン尿症やハンチントン舞踏病のような遺伝病が思い浮かぶからではないか
もっと間接的な現れ方のほうが一般的
ある行動が遺伝的に一対一に「決定されている」ことはきわめてまれで、行動はなにがしかの程度、遺伝的な「影響を受ける」と言う方がずっと実情に即している
科学的に何か明らかにされたということと、私達はそのとおりにせねばならないと判断することは別であると注意しておこう
3. 進化的人間理解をめぐる誤謬と誤解
歴史的な論争
人間の本性や社会について考えている多くの学者にとって、生物学の話は危険で、中でも遺伝学はもっとも警戒すべき敵とみなされた
証拠としてよく引き合いに出されるのが、優生思想と結びついた遺伝学がいかに政治的に悪用されてきたか
ナチの優生主義
進化生物学が嫌われるおもな理由
社会ダーウィニズムと呼ばれるものの名残り
生物学は決定論であるという誤った思い込み
社会ダーウィニズムの波紋
「会社が潰れるのも、労働者が解雇されるのも、餓死する人間がでるのも、すべては適者生存の自然の理である。この世が弱肉強食の生存競争の世界であるのは、生物界の真理である。したがって、つぶれる会社を救ってやる必要もないし、適者生存に負けた貧乏人を救済する必要もない」
ヘンリー・フォードの考え
社会ダーウィニズム(あるいは、社会進化論)
ダーウィンの考えた自然淘汰とは以下の4つの事実から、より環境に適した性質が集団中に広まっていく過程を指す
1. 生物の個体間には変異がある
2. 変異の中には、個体の生存や繁殖に影響を及ぼすものがある
3. そのような変異の中には、親から子へと遺伝するものがある
4. 生き残るよりも多くの子が生まれるので、個体間には競争が生じる
社会ダーウィニズムの成立にあたっては、ハーバート・スペンサーの考えが大きな影響を与えたと言われている
適者生存という言葉を作ったのはスペンサーでダーウィンではない
スペンサーは生物学者ではなかった
彼を始めとする社会ダーウィニストたちは、アフリカやアマゾンの密林で生活している狩猟採集民を劣った未開人だとみなし、未開社会から進化によって漸進的に人間の社会に進歩が起こり、ついには最も優れた西欧文明が生じた、そして、人間社会の進歩が起こるにあたっては、人間同士の生存競争によって最も優れた人間が生き残り、繁栄してきたことがその原動力であったと考えた
社会ダーウィニズムの誤り
進化と進歩を単純に同一視したこと
進化は価値とはまったく無関係の現象で、どのような意味においても先験的な方向性を持つ過程ではない
遺伝について無知なまま、どのような人間活動も進化の対象となると思っていたこと
進化というのはあくまでも遺伝的な変化を伴う過程を指すもの
西欧人は未開人よりも生物として優れ、金持ちは貧乏人よりも生物として優れていると思っていたこと
進化は社会全体の利益のために起こると思っていたこと
社会ダーウィニズムは当時たいへん広く普及した
4つの誤りを一般の人々が多く共有していた
スペンサー流の考えがおかしいと思う人達もすぐにたくさん出てきた
生物学上の進化理論にとって恐ろしく迷惑なのは、社会進化論は間違っていると却下した人々の多くが、その下敷きになっているダーウィンの進化論も胡散臭いものに違いないと判断し捨て去ったことにある
その名残が1970年代後半に爆発した社会生物学論争にも尾を引いている
ウィルソンの「社会生物学」の衝撃
1975年にハーバード大学のエドワード・ウィルソンが『社会生物学(Sociobiology)』という大著を著した(Wilson, 1975)
社会生物学論争というものを引き起こした
ウィルソンは昆虫学者で、もともとアリの行動生態に関する世界的権威
1975年といえば、群淘汰の誤りが是正され、動物の行動の進化に関する画期的な理論がいくつか提出されて、ローレンツらが切り開いた「エソロジー(動物行動学)」という分野が新しく生まれ変わろうとする時期
この新しく生まれ変わった動物行動の進化的研究は、その後ウィルソンの本の題名をとって社会生物学、または行動生態学と呼ばれるようになった
大論争となったのは、本の最終章で、人間の社会や行動をも同じように分析しようとしたからにほかならない
人間の家族や社会の成り立ち、人間の示す利他行動、性行動(同性愛も含む)の存在などがどうやって作られてきたかを、遺伝子淘汰の理論で、他の動物行動と同じ用に解明しようとしたから
そしてさらに、心理学、社会学、文化人類学、法学、倫理学などの人文・社会系の学問は、今後は社会生物学という名のもとに、遺伝子淘汰の理論で統一されるだろう、とウィルソンは予言した
人間も進化の産物である以上、人間の行動や社会について考える学問はすべて、進化的視点を入れなければならないからというのが理由
社会生物学論争の論点
社会科学者たちは、人間の行動や社会の成り立ちは、生物学的要因によってではなく、文化や学習や自由意志によって左右されているのであり、人間の理解に生物的知識は必要がないとみなしていた
そこで彼らは、社会生物学は、不当な生物学的決定論であり、乱暴な還元主義であると主張した
遺伝決定論の誤り
反対者の多くが、これは新しい衣をかぶった社会ダーウィニズムであると感じたものだった
生物学者の中からも反論が出た
事実、最も大掛かりな反ウィルソン・キャンペーンを張ったのは、同じハーバード大学の著名な左翼系生物学者である、スティーブン・グールドとリチャード・ルウォンティンだった(Lewontin, 1984)
彼らは、人間の行動に生物学的・遺伝的基盤があるという説明は、人間の現状がなぜこうなっているのかを説明することによって、現状を肯定するものだと批判した
政治的には意味があるのかもしれないが論理的には誤り
現状がなぜそうなっているかの科学的説明を与えることは、そのままでよいのだという価値判断とは別の作業
社会学者、文化人類学者たちの反論にも、決定論的に受け取ることの誤りが含まれているが、彼らの主張にはその他に、「遺伝」対「文化」、「本能」対「学習」、「からだ」対「心」といった、完全二分法が成り立つという誤った仮定が含まれている
デカルト以来の心身二元論に根ざすのかもしれない
仮に「反・生物論」と呼んでおく
反・生物論者は「本能」と「それ以上の高度な知能」という二分法を使うようだ
遺伝と環境、本能と学習という二分法が生まれる土壌
加えて、多くの人々は遺伝的に影響のあること、生物学的な基盤を持つものというのは、人間の力ではなんともしがたい変更不能の運命であると考えているようだ
人間行動生態学の発展
ウィルソンの『社会生物学』には、確かに間違いもたくさん含まれていた
例えば、社会科学系の諸学が、将来、社会生物学という一つの理論枠の中に解消されるだろうという主張が誤りであることは確か
この世の現象には、色々なレベルがあるので、レベルごとに違う体系の学問が存在して当然
生命というものは、高分子で形成されたシステムだが、だからと言って、生物学が物質科学に完全に還元できるわけではない
生命が高分子で形成されたシステムであるということは、生命現象が、どんなに生命特有の現象であっても、物理学や化学の原理と基本的に矛盾することはないということであって、その上で、生命に特有の現象を研究する生物学が成立し得る
しかし、同時に、ウィルソンが予言したとおり、人間の社会行動の生物学的探求は、過去四半世紀の間に確実に進歩を続けてきた
おそらく、一番面白いのは、伝統的な心理学、社会学、文化人類学、言語学、法学、経済学、倫理学などの分野から、慎重に吟味した議論をもって、人間性の進化的基盤を探求する研究がたくさん現れてきたこと(Dennett, 1995; Sperber, 1996; Skyrms, 1996; Hodgson, 1993; Alexander, 1987; Petrinovich, 1995; Pinker, 1994)
ただし、それはウィルソンの予言が実現=社会生物学に統合されようとしているわけではない
進化生物学の発展によって、人間を研究する学問の一部にも変化が起こってきているということ
#ノート